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日本一の美城 姫路城へ行くとき、ドヤ顔できる5つの知識

こんにちは。

歴史・城郭好きに定評のある みや蔵です。

今日は日本一の美城 姫路城についてまとめてみました。

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姫路城へ行くとき、ドヤ顔できる5つの知識

 

1 大坂の監視としての姫路城

 

姫路城が現在のように荘厳華麗な姿を見せてくれるのは、関ヶ原の戦い後の時代背景によるものが大きいです。姫路城が現在に伝わる姿になったのは、1601年~1609年にかけての池田輝政時代の大改修によるものですが、当時大坂にはまだ豊臣秀頼淀殿がおり、江戸に幕府を開いた家康としても、未だ安心できると言う状況ではありませんでした。

 

家康は、姫路、彦根、名古屋と大坂を囲むように大規模な城を建設し(建設させ)、大坂を監視する体制をつくりました。特に姫路は、西国の豊臣恩顧の大名と大坂の豊臣家の連絡を断ち、睨みをきかせるという存在でした。

 

ちなみに姫路城を現在に伝わる姿へ大改修を行った池田輝政は、関ヶ原で功を挙げたただの外様大名ではありません。輝政は家康の娘を正室にしており、家康の娘婿です。輝政の息子たちも備前国淡路国の大名に取り立てられており、池田家は父子で約100万石を擁する西国最大の大名となっています。家康も池田家をほぼ身内のような存在として認識していたのでしょう。

 

こうした時代背景や徳川家と池田家の関係がなければ、姫路の地に今日に残る壮大で美しい城ができることはなかったと思います。

 

 姫路城は豊臣系と徳川系の城の融合

 

前述の通り、姫路城は関ヶ原後の豊臣家と徳川家の対立の影響を強く受けていますが、城の縄張り(配置)といった意味では、両者の融合系といった様相になっています。

 

姫路城の中核を成すのは備前丸(本丸)と二の丸になりますが、備前丸(本丸)は天守閣に至る行程が複雑に折れ曲り、大小10以上の門を超えなければ天守閣には辿り着かないという実に複雑な曲輪(配置)になっています。こうした複雑な構造は熊本城に代表されるような豊臣系大名の城の得意とするものでした。一方、二の丸はカタチとしては言わばシンプルですが、多聞櫓を用い大軍の収容も可能とする徳川系(藤堂高虎系)の特徴を持ちます。

 

姫路城は豊臣系と徳川系の融合でより強固な城郭となっています。

 

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3 姫路城は自衛隊により大掃除される

 

姫路城はその天守閣の白く美しい姿から別名「白鷺城」と呼ばれています。この姫路城は毎年12月に姫路駐屯地の自衛隊に大掃除されています。天守閣、水堀、石垣、長塀などを自衛隊500名が近くが派遣され、美しさが保たれています。

他の城では、石垣からボーボーと草が生えており、正直言って見苦しいこともあります。他の城に行くと、姫路城の整備度合いをヒシヒシと感じますね。

 

掃除の姿が、年末のニュースやテレビ番組で放送されることも多いので、是非ご確認ください。

 

4 美しい天守閣の写真は二の丸から撮れる

 

自衛隊が大掃除し、美しい姿が保たれている姫路城の天守閣を撮影する城内最大の撮影スポットは二の丸です。城の天守閣を撮影するときは正面からではなく、斜め45度あたりから撮影すると綺麗で所謂「ばえる」写真を撮影できます。姫路城内では二の丸から臨む天守閣がその角度です。荘厳華麗な姫路城天守閣を撮影ください。

 

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5 空襲でも燃えなかった奇跡の城

 

太平洋戦争で日本は各地で空襲の被害を受けます。当時まで天守閣が残っていた岡山城名古屋城和歌山城なども空襲により天守閣が焼失してしまいました。

そうした厳しい状況のなか、当時の姫路市民は姫路城を守るため姫路城に黒い網をかけ目立たないようにしたとも言われています。姫路も空襲を受けますが、幸運にも姫路城天守閣近くに落ちた焼夷弾が不発だったこともあり、姫路城は焼失を免れました。

これはもう奇跡としか言いようがありません。

 

まとめ 

これまでの投稿になく熱が入った記事になってしまいました。

これから姫路城に行かれる方や姫路城へ行かれた方の参考になれば嬉しい限りです。

 

引き続き、当ブログをよろしくお願いします。